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rexus別館

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apotosis vol.1

apotosis vol.1


DAY1 Kai

 何も考えずにぼんやりと天井を見つめている。
 肌に絡まりついてくる冷たい静寂。
 蝋燭の灯火も消えた薄暗い部屋。
 感覚だけが異様なまでに研ぎ澄まされていき、頭の中はぼんやりとぬるま湯に浸かっているような、そんな漫然とした思考に覆い尽くされていた。
 窓から差し込んできた街灯がユラユラと光の波を映し出している。まるで意志を持っているかのように、それはゆっくりと真っ白な壁の中へと飲み込まれていく。
 俺は何も考えずにぼんやりと天井を見つめていた。
 目の前で繰り広げられる光と闇の饗宴を虚ろな瞳に映しながら。
 違う……この飲み込まれてしまいそうな焦りと不安の中でただ彼女の事だけを考えていた。
 人一倍強がりで、こうと決めたら絶対に譲る事を知らない無鉄砲なダークエルフの事を。


a p o t o s i s



「……ジェンド」
 拳をギュッと握りしめながら彼女の名を口にした。
 彼女は俺の許を離れていこうとしている。二人の想い出の詰まったこの家で……アイツはどう別れを切り出そうかと考えている。
 俺に非があるならいい。
 彼女の気持ちが俺から離れてしまったのであればそれも仕方がない。
 ただそうでないなら……彼女を行かせるわけにはいかなかった。
 一つだけ溜息を吐くと、ゆっくり身体を傾けてベッドの上に起きあがった。傍らに置かれた彼女の上着を手に取り、そして鉛でもついたかのように重い足を動かしてバルコニーへと向かっていった。

 バルコニーの片隅に彼女はいた。
 ペンキの剥げた手すりに両腕を乗せて、身体を前倒しにしながら空を見上げている。冷たく肌を刺す風に髪を靡かせながらも微動だにする様子はない。ただ闇の奥にじっと視線を凝らしたその瞳はガラスのように透明で、長い睫毛はしっとりと濡れているようだった。
 月明かりを受けて艶めかしく光るそれを見つめながら思わず唾を飲み込んでしまう。長い間一緒に過ごしてきた筈なのに、彼女のそんな姿を見るのは初めてだったのだ。
「風邪ひくぞ?」
 手にした上着を掛けてやると、彼女は俺の方を見る事なく「……ああ」とだけ応えた。
 その隣に陣取って、同じような体勢で空を見上げる。
 雲一つ無い空の向こうには冴え冴えと輝く月が、その周りを瞬く星々が取り囲んでいた。
「カイ……話があるんだ」
「ん?」
「私と……私と別れてくれないか」
 いつかは言い出すと思っていた。
 その瞬間を恐れて、少しでも先延ばしにしたくて。
 でも……いざ言われてみるとあっけないほど何も感じなかった。彼女の言葉が右の耳から左の耳にすり抜けていくような、そんな感覚だ。本当に悲しい時には涙も出ないと言うけれど、どうやら本当に辛い時には辛いとすら感じないらしい。
「……どうして?」
「理由は解っている筈だ」
「ああ。だけどお前の口から聞きたい。じゃないと否定出来ないじゃないか」
「その必要はない」
「納得しない」
「……そう言うと思ってた。私が傷つくのはいい。だけどお前を傷つけてしまったら……そんな事になったら私は自分を許せないだろうから。ふんっ……これで満足か?」
 ふと視線を横に向けると、彼女は嘲るような笑みを浮かべて俺を見つめていた。その笑みは自分を侵すいかなる者をも許しはしないという強い意志の表れであるような気がして、俺はそれ以上の言葉を続ける事が出来なかった。
 肩に掛かった上着を羽織り直した彼女は俺を尻目に部屋の中へと入っていく。
 少しずつ遠ざかっていく足音を聞きながら、俺は今更ながらに頭の中が真っ白になっていくような感覚に襲われて、手すりを握りしめた手にギュッと力をこめていた。そして強い拒絶をはねつけるように部屋の中へと入っていった。

 薄暗い部屋の中で彼女はベッドの上にちょこんと座っていた。
 何をするわけでもない、ただ俯いたまま微動だにせずにそこにいるだけだ。その姿に先程の面影など微塵も残ってはいない。無造作に垂れた髪の毛、丸く縮こまった身体、深い陰影の刻まれた表情<カオ>……その全てが痛々しく見えて仕方がなかった。
 そんな彼女の隣に座ると、小さな手の上に自分のそれをそっと重ねた。
「お前が考えているような事にはならないよ……俺が絶対に守ってやるから」
 言葉を遮るように俺の顔を見つめる彼女。
 震える手で俺の頬に触れながら、唾をゴクリと飲み込んでゆっくりと唇を開いた。
「どうせ何を言っても聞かないのだろう?それなら……約束してくれないか?もしも私が私でなくなったその時は--」
 彼女の顔がゆっくりと近づいてくる。洗い立ての髪の匂いがフワッと香って、それで視界が遮られた瞬間、小さく掠れた声が薄闇に響き渡った。

--私を殺してくれないか

 有無を言わせぬように乾いた唇が重ねられる。彼女と繋がっているその部分の感覚だけが生々しくそこにあって、他は自分の一部だとは信じられないくらい何も感じはしなかった。
 そんな俺を一気に現実へと引き戻すかのように唇に生暖かい液体が零れ落ちてくる。彼女の細い指がグッと背中に食い込み、その瞬間ぼんやりとしていた頭の中がハッと冴え渡った。
 今までに幾度となく交わしてきた筈なのに……こんなしょっぱいキスは初めてだった。



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